特集「なぜ数学を学ぶのか」まとめ(後編) ~ 『数学セミナー 2018年4月号』読書メモ
『数学セミナー 2018年4月号』の特集は「なぜ数学を学ぶのか」です。
- 出版社/メーカー: 日本評論社
- 発売日: 2018/03/12
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前回の記事では、11名中5名の方の内容をまとめました。
この記事では、特集内の後半の6名の方の内容について書きます。
なお、この記事の中の《 》は本文中からの引用です。
根上生也さん「数学的人格となれ」
「数学ができる人」に社会が期待することが何かを考えることから、この文章は始まります。
それは、難しい数学の問題を解けるという意味ではなく、問題に向き合う姿勢や勉強する姿勢ではないかと指摘しています。
その期待されるべき人格像を「数学的人格」と定義し、どのような特徴を持つ人かを2つ挙げて議論しています。
この文章を読んで感じたことは、次の2点でした。
- 「数学的人格」は原理・構造の探求に加えて、議論の仕方という意外と人間くさい側面もある。
- 数学専攻を卒業した身として、もし「数学的人格」が備わっているなら、それを社会の中でどれだけ発揮できているだろうか?
小谷元子さん「数学はやめられない」
前半の内容を一言でまとめるなら、数学の自由さです。
文中からの引用になりますが、次の言葉がそれをよく表していると思います。
数学の自由性は論理に支えられているが,駆動するのは「抽象性」である.
また、『数学の自由性』(高木貞治著)が紹介されています。
読んでみたい本がまた増えました。
- 作者: 高木貞治
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後半は、筆者が携わっている数学と材料科学の融合分野の研究についてです。
こちらも本文からの引用ですが、とても不思議なことです。
数学の内的な動機に基づいて発見され発展してきたさまざまな数学的概念が,なぜかピッタリと物質の構造と機能の相関を記述することに当てはまるのである.どうしてこの世界はこれほどうまく整合しているのかと感じる.
甘利俊一さん「なぜ数学を学ぶのか - 数理工学の立場から」
前半の2節が数学の歴史を高速で見ているようで興味深いです。
- 1. 脳と数学
- 2. 文化としての数学
ここまでで純粋数学が成立した過程をつかみ、後半では数理科学の話が出てきます。
また、以下の内容(本文からの引用)が私は気に入っています。
ギリシャ文明はこれを抽象化し,体系化した.素数は無限個あるという証明には,ただ驚嘆するしかない.よくもこんなことを考えたものである.考えようとしさえすれば,証明はそう難しくはなかったかもしれないが,こんなことを考えようとすることが驚異である.
安生健一さん「映像のリアリティとは? - CGにとっての数学の役割」
タイトルにあるとおり、CGではどのような数学が使われているかを具体例をもとに説明しています。
キーワードとして次のようなものが出てきます。本当に数学的です。
これからCGを見るときに意識するポイントが変わりそうです。
山﨑雅人さん「論理と抽象の彼方に」
この記事を書くために改めて読んでみると、数学の勉強に行き詰まってしまった人が読むと元気づけられるかもしれません。
本文の要約ですが、次のような内容が腑に落ちました。
教科書で定義が天下り式に出てきて理解できなくても、それは自然なこと。
なぜなら、歴史の中の幾多の試行錯誤の末に生き残った本質が教科書に残っているから。
「数学は自分なりに地に足の着いた学び方ができる」など、勇気づけられる優しく感じる言葉がたくさん書かれている。
杉原厚吉さん「数学を勉強するとどんないいことがあるの?」
この特集の最後の記事になります。
こちらも節のタイトルが非常に印象的です。
- 1. はじめに
- 2. 新製品は数学で作られている
- 3. 数学の力
- 4. 方程式でどう表すかが勝負
- 5. プログラミングも大切
「3. 数学の力」に書かれている次の内容を読んで、「そう考えたことがなかった!」と思いました。
数学が「論理の展開を式変形という機械的操作に置き換える」という他にはない力をもっているからです.
(中略)
これ[方程式を解くという機械的な操作]は論理的思考の各ステップをすべて自動化することに相当します。
また、「4. 方程式でどう表すかが勝負」には、現象を方程式を自分で作って表すことの大事さが書かれています。
学校教育での数学では、与えられた方程式をドリル的に解くことが重視されているかもしれません。
でも、数学を生かして使うという立場に立つと、現象を自分で式で表して、コンピュータに解かせることをより重視することも大事なのかなと感じました。
特集「なぜ数学を学ぶのか」まとめ(前編) ~ 『数学セミナー 2018年4月号』読書メモ
『数学セミナー 2018年4月号』の特集は「なぜ数学を学ぶのか」です。
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このテーマについて11名の方がそれぞれの思いを書かれています。
とても興味深い内容で、普段はこういう読み方をしないのですが、アンダーラインを引きながらそれぞれの文章を読みました。
内容に共感したり、新しい発見があったり。
それぞれの方が書かれた内容の印象に残った点をメモしたいと思います。
この記事は前編として、特集内の前半5名の方の記事について書きます。
なお、この記事の中の《 》は本文中からの引用です。
長岡亮介さん「そう問う君は幸いだ - なぜならもう君は数学の近傍にいるのだから!」
5つの節のタイトルが印象的です。
- 0. 表題の問いについて
- 1. 表題の問いについての常識的な回答とその検討
- 2. 表題の問いについての現代的な回答ととの検討
- 3. 表題の問いについての古典的な回答とその検討
- 4. なぜ表題の問いが大切であるかについての現代的検討
どの節の内容も興味深いのですが、特に「4. なぜ表題の問いが大切であるかについての現代的検討」が心に残りました。
具体的には、以下の2点です。
- 高校までの数学と大学までの数学の違いは、《パラダイムが異なる数学》であること
- 学校教育で行われている数学の《「思想」》に対する批判
後者については、私も共感するところです。
志賀弘典さん「なぜ数学を学ぶのか? - 自問自答」
《数学を自分の世界観と連動して内在化する》という言葉や岡潔の話が出てきます。
まさに、『数学する身体』(森田真生著)を思い起こさせます。
- 作者: 森田真生
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竹山美宏さん「数学科で絶望しないために」
こちらも節のタイトルが印象的です。
- 大学で学ぶ数学はどのようなものでないか
- 大学の数学の学習では何が変わるか
- なぜ定義と証明が重要なのか
- 正しさの共有に何の意味があるのか
以前から「大学の数学では、定理の証明の理解をしっかりと行うのはなぜか?」という漠然とした疑問がありました。
この疑問のひとつの答えが「なぜ定義と証明が重要なのか」に書かれていて腑に落ちました。
原田耕一郎さん「そこに山があるからだ」
タイトルに「山」という言葉が入っていますが、自然界というよりも数学に対する畏怖の念を感じさせる文章です。
和 1+(1/2)+(1/3)+…+(1/n)+… が無限大に発散することを例に、以下のようなことが書かれています。
コンピュータで n=10^6 ぐらいまで計算してみても,和はやはり小さい.実際、地球が誕生してからの時間に,現在の世界の全人類が協力して1秒に1項ずつ和を計算したとしても総和はせいぜい100程度の数である.それでも数学は総和が無限大に発散することを示す.無限大という「数,概念」に畏怖を感じないだろうか.
この引用部分は非常に印象的でした。
伊庭幸人さん「データサイエンスを学ぶ理由,もしくはまだ覚醒していないあなたへ」
真正面から数学を見た記事というよりは、統計学に主眼を置いて書かれています。
私自身は統計学は素人ですが、《数学を学んだ功徳》を統計学に生かせるというのは、数学を学んだ人間としてはうれしい言葉でした。
また、《統計学というのは中途半端に勉強すると有害な場合のある珍しい科目だ,という気がする》というのがとても斬新な指摘です。
後編に続きます。
「自然の中にいると心が安らぐ」の意味がやっとわかった
ここ数年で、近所の大きな公園に行くことが増えました。
きっかけは精神的に不調になったこと。
休職1回目のとき、復職に向けて体力づくりをするために公園の中を歩くようになりました。
その後に公園に行く回数がかなり増えました。
何かあると、車で公園に行って、草木や海を見ながらぼーっとしたり、本を読んだり、散歩をしたりしています。
そうすると、だんだん心が落ち着いてくることに気づきました。
これが世にいう「自然の中にいると心が安らぐ」というようなことなのかなと思いました。
それまでは「自然の中にいると落ち着く」とか「自然の中で食べるごはんはおいしい」のような、「自然の中にいると○○だ」という言葉に疑問を持っていました。
「自分は感じたことがないし、そんなことあるわけない」と。
ここで立ち止まって考えてみます。
高校生まで過ごしていた実家は畑の真ん中にありました。
中学校までは通学路も学校周辺もほとんどが畑。
高校は市街地にありましたが、オホーツク海沿いの崖の上にあり、冬は学校の中から流氷が見えました。
大学は実家を出て暮らしました。
キャンパスは日本でも屈指の広さで、草木はもちろんあり、川も流れています。
なので、学校に行くこと自体が、公園の中を歩いているようなものでした。
そして、就職して北海道を出ることになりました。
今考えてみると、就職後に住んだ場所は自然に囲まれている感じはほとんどしません。
ですが、ほんの10分程度でも車を走らせれば、大きい公園や海などに行くことはできます。
しかし、公園や海といった場所に自分の意志で意図的に行った経験がないので、そのような場所に行くという考えがありませんでした。
そうこうしているうちに体調を崩して、公園に自分の意志で通うようになりました。
そして、ようやく「自然の中にいると心が安らぐ」ことを実感し、その言葉の意味を理解しました。
自分の中のあたりまえに気付かずに、他の人の言葉や経験を否定してしまっていること、他にもあるかもしれませんね。
「実数→複素数」と「複素数→実数」の関数があまり論じられない理由
3月になって、ブックオフに数学の専門書がいつもより多く並んでいます。
卒業した大学生が教科書を売りに出したんだろうと思います。自分もそうでした。
この状況、ちょっとワクワクします。
図書館に数学の専門書が少し置いてある程度で、近所に本格的な数学書を扱う書店がないので。
そんな思いで書棚を見ていたら、複素関数論の本がありました。
林一道『初等 関数論』です。
- 作者: 林一道
- 出版社/メーカー: 裳華房
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複素関数論は学生時代に講義を受けたものの理解できませんでしたが、なんとなく手に取ってみました。
すると、この本の前書きにずっと疑問だったことの答えが書いてありました。
複素関数についての素朴な疑問
複素関数を勉強し始めたころから素朴な疑問がありました。
【疑問】
複素関数を定義域と値域で大きく分類すると、次の4つに分かれる。
(1) 実数→実数
(2) 実数→複素数
(3) 複素数→実数
(4) 複素数→複素数
※「定義域→値域」の形で書いている。
(1)は微分積分学、(4)は複素関数論で議論される。
では、なぜ(2)と(3)は議論されることがほとんどないのか?
「実数⊂複素数」なので、広い意味では(1)~(3)は(4)に含まれます。
一方で、(4)の特殊なケースである(2)と(3)は、独自の理論のようなものはないんだろうか?という疑問です。
その答えについて、『初等 関数論』の前書きをベースにまとめました。
「(2) 実数→複素数」は、最終的に(1)に帰着できる
(2)のような関数(実変数複素数値関数)を とします。
なので、(1)の形の関数(実変数実数値関数) を使って、 と書けます。
このとき、 が連続 (resp. 微分可能, 一様連続) ならば、 も連続 (resp. 微分可能, 一様連続) になります。これは から従います。ここで、 はそれぞれ の実部と虚部です。
※不定積分の定義は、ちょっと怪しいかもしれません。複素関数の積分の定義から導出するのが正しいのかも…。
つまり、結局は(1)の形の関数の議論(微分積分学)に帰着されます。
「(3) 複素数→実数」は定数関数に限られる
次に、(3)の関数(複素変数実数値関数)です。
『初等 関数論』定理12.1がこれです。(証明は追えていません)
定理
複素平面内の領域(連結開集合)上の正則な実数値関数は、定数関数に限る。*1
これにより、(3)の関数(のうちで領域上で正則な関数)は、実質的に定数関数しかなく、研究対象となりにくいことがわかります。
そう言われてみると、領域という複素平面上で“一定程度の面積を持つ集合”から、実数という“長くても1本の直線である実軸”への正則な関数は、非常に限られるだろうというイメージもできます。(あくまでもイメージです!)
複素関数のことが少しだけわかった
このようなことを考えると、複素関数のことが少しわかった気がします。
もう1つ疑問だったのが、複素関数で線積分が出てくるのはなぜか?ということでした。
「定義だからそういうものだ」と解釈すればそれまでですが、モヤモヤが残っていました。
これは広い意味で複素関数の一部と言える(1)を考える中で少しずつわかってきました。
(1)の関数の定積分は、実数上の区間(半開区間や無限区間などを含む)で定義されます。
この区間を複素平面上で考えれば、実軸上の線分や直線と思えます。
それを複素関数に拡張すれば、複素平面上の曲線を使った線積分を定義するのは自然だと思えたわけです。
非常に基本的なところでつまずいていた感じですが、これがわかってとてもすっきりしました。
*1:次のURLの『複素関数の基礎のキソ』の発展問題6-1 (2)に同様の主張があります。 www.math.titech.ac.jp
ブログを書いている3つの理由
2018年に入ってから、ブログの更新頻度を上げています。
その前も細々とやっていましたが、いろいろ思うことがありまして。
そこで、私がブログを書いている3つの理由をまとめておきます。
(1) 頭の中を整理するため
(2) 同じ悩みを抱えている人にヒントを提供するため
(3) リハビリのため
(1) 頭の中を整理するため
寝ている時間以外は、何らかのことをぼんやり考えていることが多いです。
煮詰まってくると紙に書き出して考えることもあります。
紙に書き出すのは、もやもやしてとにかく頭の中を吐き出したい場合。
だいたい後ろ向きなことが多いです。
前向きなことは、PCで文章にして整理することが多いです。
その結果をブログで公開しています。
ブログで公開する場合はよく考えて文章を書くことになるので、頭がすっきりすることが多いです。
(2) 同じ悩みを抱えている人にヒントを提供するため
もし、ある悩みを抱えているとします。
この場合、自分自身で答えを出そうとしても出ないことがあります。
そうすると、インターネット上で同じような悩みを持った人の経験談を探したくなります。
自分とぴったり同じような人はそうそう見つかりませんが、似たような悩みの人はいます。
こういう人を見つけると単純にうれしいですし、その方の経験談や考えた道筋はとても役に立ちます。
私がうつ病になったときは、似たような境遇の人のブログに書いてある内容が役立ったことがあります。
(3) リハビリのため
うつ病で休職していると、体力や思考力などがだんだん落ちてきます。
私の場合は体力低下が顕著ですが、少しでも維持・向上させるために地道にやっているつもりです。
ただ、基礎的な体力があまりないので、なかなか効果が実感できません。
思考力は体力ほど落ちていませんが、本を読むなどして保っていました。
しかし、読書だけではインプットの多さに飲み込まれてしまって、かえって苦しくなってしまいました。
インプットと同じバランスで吐き出す場所がないと苦しいなと。
それじゃぁということで、ブログで比較的長い文章を書いてアウトプットしてみようという考えになりました。
これをすれば、病気が快方に向かった後にもアウトプットの経験を生かせるだろうと考えました。
このようにリハビリの一環でブログを書いています。
*1:もちろん病気のことだけでなく、数学をはじめあらゆることについてです。
メンタルクリニック診察時に持っていくメモ(サンプル)
およそ半年前に「診察時に自分の状況を簡潔に伝えたい」という記事を書きました。
このころと同じく、今もメンタルクリニックに通っています。
その後も自分の状況をうまく伝えられないかと思っていましたが、数ヶ月前から診察時にメモを作って印刷して持っていくことを始めました。
このメモを使った診察を10回ほど重ねて、軌道に乗ってきましたのでご紹介します。
診察時に持っていくメモのサンプル
■体調面
・【前回と変わらず】気分がだんだん落ち着いてきた。
・【前回より上向き】昼間に趣味の○○をやろうと思うようになった。
・3月22日にほぼ1日寝込んでしまった。原因は○○。対応は△△。
■生活面
・【継続中】朝の散歩と軽いストレッチを毎日やっている。
・【新規】毎日のルーチンの作業として、○○を始めた。
■環境面の変化
・4月から、妻がパートで働くことになった。
■今後にむけて考えていること
・復職に向けて、○○を考えている。
■その他
・ほかの病院に通っていれば、その経過を簡単に書く。
・「診断書をもらう」などの依頼事項を書く。
上の例で書いた内容は、あくまでフィクションですが、
- ■で示した記載する項目
- 【 】で示した前回診察時からの変化がわかるような記載方法
は参考になるかと思います。
メモを使った診察の4つの利点
診察にメモを持っていくことで、次の4つの利点があると考えています。
(1) 診察前の頭の整理ができやすくなる
文字に起こすことで、自分自身の頭の整理がしやすくなります。
体調のことに限らず、ものごとを考えるときは文字として書くことが大事ですね。
(2) 限られた時間内で効率的に自分の体調を伝えられる
診察時は、先生にメモを見せて、2人で読み合わせるように進めています。
(幸い、私の主治医はこのような診察で対応してくれます)
最初はぎこちなかったですが、回数を重ねるとうまく伝えられるようになりました。
(3) 大事なことの言い忘れを防止できる
話したいポイントをメモに書いておけば、言い忘れはかなり削減できます。
(4) 診察前に客観的な意見をもらえる
これは家族のいる方などに限られますが、診察前にメモを家族に読んでもらうことで、客観的な意見をもらえることもあります。
私はいつも妻に読んでもらい、客観的に見た病状と書いたことが合っているかを確認してもらっています。
メモ作りはだんだん楽になります
最初は自分なりの小さなメモで構わないと思います。
話す内容を少しでも頭からアウトプットするだけでも効果ありです。
また、1回目は書くのが大変かもしれません。
しかし、2回目以降は前回のメモを更新するだけなので、作業量が減ってきて楽になります。
気になる方は始めてみてはいかがでしょうか?
「数学をしたいという思い」は何なんだろう。
最近、このツイートを見て、ずっと頭の中にあったもやもやが解消された気分になった。
「お前がしたい数学というのは本当に研究なのか? 既によく整理された理論体系を理解し鑑賞したいだけなんじゃないのか?」「それは…」「それは趣味としてやる数学の勉強であって 仕事としての数学の研究ではないんじゃないのか? 数学を仕事にする覚悟は?」 「…」 pic.twitter.com/GlMsnYI3X9
— yuka_math_phys (@yutkatkitkat) 2018年3月17日
なぜなら、「自分の中にある『数学をしたい』という思いは何なんだろう?」という疑問に対する答えが見えたから。
今は会社員*1であり数学者ではないが、単純に数学をするのが楽しい。
現在の自分にとって、「数学をする」とはどういうことだろう。
高校生までは、問題を解くのが数学をすることだと思っていた。
大学~大学院では、数学書に書かれている内容を可能な限り理解することで数学をしていると考えていた。
内容というか、証明の論理を追うことが目的化していたが。
今は、「数学に関するネット上の情報や本をざっと読む」のが楽しい。
個々の内容を深くは理解できないけど、今まで勉強した数学を改めて振り返って、
- 今まで手を付けてこなかった数学の分野の概要を知りたい。
- 過去にわからなかった数学の内容を少しでも理解したい。
- 数学の分野の思わぬつながりに気づきたい。
という思いがある。
つまり、数学そのものをなるべく広く深く知りたい欲求がとても強い。
一方で、新しい数学的事実を自ら発見したことはないし、無理だと思い込んでしようとしなかった。
本当は数学者になりたかったが、大学に入ってから先生や先輩・同級生の頭の良さに驚き、太刀打ちできないと断念した。
そういう自分にとって、数学をしたいという思いは何なのかとずっと思っていた。
それが最初に紹介したツイートにある
既によく整理された理論体系を理解し鑑賞したい
という言葉そのものだと思って、とてもすっきりした気分になった。
*1:メンタル不調で休職中ですが…